徒然にアロマ日々の出来事について載せていこうと思います。
 10月に入ると神事奉納の儀が各地で行われ伝統の美しさに心が染み入ります。
 伝統には深い歴史が刻まれ、そこからまた数々の背景が浮かび上がります。
 そんな中のひとつを私なりの解釈で紐解いてみたいと思います。
  雅楽や能の始祖、秦河勝が没したのは兵庫県の赤穂の坂越とされ、神域の生島には秦河勝の墓があります。そして坂越湾に面して秦河勝を祭神とする大避神社(おおさけじんじゃ)が鎮座しています。大避神社は天照大神と春日明神もご祭神としてお祀りしています。
この大避(大酒)神社には、秦氏が弓月国から持ち帰ったという、天使ケルビム(智天使)の像とされる胡王面があり、日本で現存する最古の雅楽の面として伝えられています。この胡王面は猿田彦のモデルの様な面です。
 神社の呼称である「大避」は、延喜式以後であり、それ以前は「大闢(だいびゃく)」と書かれていました。 中国景教を研究した佐伯好郎は、「中国ではダビデを漢訳して大闢と書くが、大避神社は渡来民族である秦氏によって日本にもたらされた景教を祀るために建立された礼拝堂だった」とし、坂越が古代ユダヤ人の渡来地であると述べています。byWikipedia
 さて、話しは変わりますが、高畑町に春日大社宮司宿舎に隣接する赤穂神社があります。
天武天皇6年(678年)4月14日に十市皇女を、天武天皇10年(682年)に氷上娘を「赤穂」の地に葬ったと『日本書紀』に記されており、その赤穂としてこの地が有力とされています。
赤穂神社のご祭神は天児屋根命を主祭神とし、天満宮・弁才天を合祀した社を併置しています。
歴史は飛鳥時代よりの藤原氏の氏神であり、平城遷都に伴いこの地に遷座したと伝わるとあり、熟稲を神籬に懸け、「赤丹穂に聞食し給へ」と申したことより、赤穂の社と呼ばれるようになったという。
また、祈年祭祝詞な中に『赤丹穂に聞食す(あかにのほきこしめす)』とあり、二月堂のお水取りの際に読み上げられる『神名帳』にも「赤穂明神」とあるそうです。
bywikipedia
秦河勝が没した兵庫県赤穂の地と、奈良県赤穂神社とは何か繋がりがあるのか。
まず、赤穂神社の由来となった先のきっかけが、十市皇女と氷上娘が赤穂の地で葬られ、赤穂とはこの辺りだろう?。ということからだが、十市皇女と氷上娘との共通点はなんだったのか。
まず、十市皇女とは、天武天皇と額田女王の間に生まれた皇女。
氷上娘は藤原鎌足の娘。
一見何の共通もない二人だが、本来の繋がりはこうだ。
額田王女の父は鏡王。姉に鏡王女がいる。
鏡王女は藤原鎌足の妻となった。氷上娘は鏡王女との間の子ではないようであるが、
氷上娘は天武天皇の夫人となっている。
そして、面白い事に、額田王女と鏡王女が同一人物であるという見解もあり(本居宣長)、そうなると…
                  天武天皇======||
   鏡王              ||ーーー十市皇女 ||
     ||ーーー鏡王女 (額田王女)      ||                       
 吹黄刀自         ||                           ||
                  藤原鎌足ー氷上娘==||
という様な図式になる。
赤穂神社は鏡神社の別社にあたる。
鏡王女は鎌足の病気平癒のために興福寺を建立しました。
 鏡王、鏡王女は『鏡』がつく為、鏡作りの氏族と関係があると考えられています。 
 鏡王は臣籍降下した際、威奈公いなのおおきみの氏姓を称している為、摂津国川辺郡為奈郷(現在の兵庫県尼崎市東北部)に居住していた可能性があると考えられています。
鏡の青銅、銅を扱い、兵庫に居住と考えると渡来氏族(秦氏族)である可能性は高く、更に鏡王の妻 吹黄刀自は十市皇女と伊勢に詣でた時に十市皇女にこのような歌を詠んでいます。
  十市皇女の、伊勢の神宮に参赴(まゐおもむ)きし時に、波多(はた)の横山の巌を見て吹黄刀自(ふきのとじ)の作れる歌
河の上(へ)のゆつ岩群(いはむら)に草生(くさむ)さず常(つね)にもがもな常処女(とこをとめ)にて
  川のほとりのあの神聖な岩には苔草も生えていない。あのように常に変わらずありますように。永遠のおとめとして。
  吹黄刀自にとって孫にあたる十市皇女に『波多の横山の巌』=『神聖な岩』そのようであってくださいと詠んでいます。波多=秦=神聖とくれば、やはり秦氏が主祭神である大避神社がある赤穂を思い出させます。
 次に、鎌足の娘、氷上娘をみていきます。
氷上娘は鎌足と鏡王女との間の子ではなく、母不詳です。 しかし、鏡王女が額田王と同一人物であったなら、天武天皇夫人として同じ時を過ごしたかもしれません…
 天武天皇と氷上娘の間には但馬皇女がいます。ここでやはり思い浮かべるのは兵庫
兵庫県丹波市氷上町氷上という地名があります。氷上郡氷上町にはいそ部神社があります。いそ部神社には比売大神がお祀りされていますが、南都鏡神社の摂社に、十市皇女をお祀りした比売神社があります。 
赤穂神社の式内由来には『高貴な姫君を葬る』とあります。十市皇女と氷上娘は特別な存在だったのでしょう。そんな特別な皇女なだけに、『赤穂』という特別な地に葬るに至った。しかし、場所が諸説あり、定かではない。
祈年祭祝詞にも出てくる『赤丹穂』祈年祭は毎年2月に行われる、五穀豊穣を祈お祭り。
赤丹穂は赤米のことではないだろうか。
赤丹穂
奈良ではよく薬膳料理などとして赤米、黒米などの古代米が出てきます。
古代米は日本の米のルーツといわれ、日本では遺跡の発掘により6000年前に稲作が始まったと考えられています。
赤米の種類に神丹穂(かんにほ)という種類があります。
神丹穂の赤い穂が実るときの美しさは他の稲の比ではなく、神秘的な美しさを感じさせるという。祈式祭祝詞に出てくる『赤丹穂』の意味はこの神秘的な美しさを表現しているものと思われる。
日本の赤米に関する最古の記録は、飛鳥京跡苑地遺構から出土した木簡にある赤米の納品の記述である。藤原京や平城京の遺跡からも木簡が出土しており、そこには赤米、赤搗米、赤春米といった言葉が書かれている。後者の木簡からは、7世紀末から8世紀後半にかけて赤米が丹波、丹後、但馬などから藤原京や平城京へ貢物として輸送されていたことや、酒の材料として用いられていたことなどがわかる。正倉院文書の『大倭国正税帳』『尾張国正税帳』にも地方から赤米が納められた記述があるそうです。
やはり、丹波、丹後、但馬と兵庫に繋がっていく。
そして、兵庫県赤穂市赤穂の由来は赤米が多く存在していたからではないか?(赤穂民報)
という見解もある。
赤穂』はお米をはじめ、赤穂の塩、名水百選千種川の豊富な水源。(日本で一番水道料金が安く、赤穂上水は日本三大上水道水)に富み、神に捧げる神聖な場所として最重視されていたのでしょう。
また、赤穂市教委の調査により6世紀後半とみられる古墳が50基見つかっているという。
相当な数である。
十市皇女、氷上娘が葬られたのは7世紀頃であるが、場所が特定されていない。
赤穂ニ葬ル』とは、もしかすると、神聖視されている兵庫県赤穂のことかもしれない…
今日は氏神様『鏡神社』の例大祭である。
別社の赤穂神社、末社、摂社の比売神社にもお参りしたいと思います。

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「神おろしとは本当だ。」涙の込み上げ方が尋常じゃなく、声を抑えるのに必死でした…
今日は『能』発祥の地といわれている、田原本『弥生の里ホール』にて能楽を堪能させて頂きました。
前回、桜三輪窯さんで陶芸体験と共にある企画をお願いするにあたり、陶芸作家の東先生のご紹介でお知り合いになった同じ年の藤本こず恵先生より、打ち合わせの時にお誘い下さった『能』の鑑賞にお伺いしました。
こず恵先生は陶芸の先生他、田原本観光ボランティアガイドとしてご活躍をされており、今回もスタッフとしてお仕事をされていました。
『能』について殆ど無知で、ただ、橘の関わりの中に出てくる秦河勝や観阿弥、世阿弥ぐらいまでしか知りませんでした。
 観阿弥、世阿弥は室町時代初期の能楽の元の大和猿楽師結崎座の猿楽師。観世流として今も受け継がれています。
 今回の『能』のテーマは伝統文化親子教室事業として、伝統を次世代に伝えるべく、可愛らしいこどもさん達の舞の発表と、お囃子のワークショップ、最後に能楽師による実演半能「敦盛」と、盛りだくさんな舞台でした。
 ホールのせいか、お囃子の音がやけに脳裏に伝わり、涙が、思わず声をあげそうになるほど溢れ出し、こんな気持ちになるのはもう何年も前に一人で天川弁財天社に行った時以来だと。
世阿弥の有名な謡曲『敦盛』は確かに幽玄美な物悲しさを能という芸術を通して哲学を伝えているのだと思います。
お囃子の説明の中で、笛の音の『ひしぎ』というのは神おろしの音と言われているそうです。
 しかし、能の舞台それそのものが神おろしであると、私は思います。
大和猿楽は古くから興福寺や春日大社に神事として奉仕することを職務としており、その体感は言うまでまなく、誰しもがそう感じることでしょう。
今日、実演して頂いた能楽師の先生方は観世流、高安流、森田流、大倉流、金春流と、列記とした血族の面々の先生方でした。
  田原本には秦氏の楽人の寺という意味を持つ、秦河勝が、建てたとされる『秦楽寺じんらくじ』があり、金春流発祥の地といわれ、風姿花伝に門前に金春屋敷があったと記されているそうです。
田原本、大変興味深いです。
そして、明日は奈良豆比古神社にて奉納の能楽の源流『翁舞』が20時~21時あります。


 
万歳楽(マンザイラク)左舞が始まる頃、どこからともなく『橘』の様な香りを感じはじめました…
1日の夜は『氷室神社例祭夕座の舞楽』に伺いました。
氷室神社
【ご祭神】
 闘鶏稲置大山主命(ツゲノイナギオオヤマヌシノミコト)
大鷦鷯命(オオササギノミコト)=仁徳天皇
額田大仲彦命(ヌカタノオオナカツヒコノミコト)
『日本書紀』(仁徳天皇62年条)に「額田大中彦皇子が、闘鶏(ツゲ)に猟された時、野中に盧叢のようなものを見つけ、闘鶏の稲置大山主命を呼んで問われたところ、『氷室』と教えてもらい、氷室の発見から仁徳天皇へ献上するに至った。
奈良市氷室神社は10月1日に例祭がある。
例祭
永久5年(1117年)9月1日、鳥羽天皇の時代に悪疫鎮止のため始められたという。源平の騒乱の後一時絶えたが、建保5年(1217年)、順徳天皇によって南都方楽所の氏神として仰ぎ再興され、日の使も参向したと伝わる。社殿創建はこの時代からのようである。
  春日大社別宮として、江戸時代に朝廷や幕府の行事に参勤した三方楽所(さんぽうがくしょ、がくそ)のひとつ南都方(なんとがた)の楽人が拠点とした神社で、神主も楽人が勤めていました。現在も神主は楽人が勤めているそうです。
三方楽所(さんぽうがくそ)は、江戸時代初期に制度化された雅楽の伝承組織。
三方は宮中方、南都方、天王寺方をしめす。
  雅楽の祖と言えば聖徳太子に仕えていた秦河勝。能楽の祖としても有名ですが雅楽の方が能楽よりも起源が早く奈良時代からとあります。聖徳太子生誕の地、現在の橘寺で舞いらせたのが始まりとあります。
なんと、かの有名な東儀秀樹も安倍晴明も秦河勝の末裔だったんですね~。
前回のブログにも書きましたが、『橘』が秦氏の象徴であるとお話ししましたが、『橘』には断つという意味が含まれますので、悪疫鎮止の呪詛として力があると思われていたのでしょう。
また、ご祭神にある仁徳天皇の妃、日向髪長媛の娘に草香幡梭姫皇女またの名を『橘姫』がいます。
日向髪長媛の物語は藤原不比等の娘になった海人の娘、宮子の髪長媛物語とどこかダブります。
宮子のこども聖武天皇の妃は光明皇后、その母は橘三千代。
『橘』繋がりで、話しがそれましたが、そんな思いもあってか、舞楽が始まりだしてからしばらくすると『橘』の香りがしてくるようでした…
 これは、おそらく篝火に焼べた木片の精油成分にα、βピネンやリモネンが含まれていたからでしょう…
 いずれ、本物の『橘』の香を舞楽にのせて燻らせてみたいものです。
ちなみに今日は、10月3日。猿沢池の采女まつりの大祭です。
 これもまた、橘三千代の息子、橘諸兄の絡んだ悲恋のお話しです。




昨日はお茶の奈良『茶良』2017 イベント「大和茶の歴史について」を聴講してきました。
講師は 寺田孝重先生。
先生は静岡大学農学博士で元々はみかんの研究をされていていましたが、奈良との縁で奈良県農業試験場茶業分場主任研究員。として始まり、現在では茶業史研究家として右に出る者なしという植物としての茶、文化としての茶、業としての茶などあらゆる『茶』の研究され、ご活躍されています。
寺田先生と美風先生は遷都1300年祭の天平茶会からのお付き合いという事で、その時のお話しも伺いました。
『お茶』も深くて広く、大変興味深い分野だと思いました。
現在は、大和郡山市のフラワーセンター統括主任をされており、佐保短期大学講師として、園芸とアロマテラピーについもお話しされるそうです♪





先日、天川弁財天社に行き、古文みくじに書いてあった『橘』の文を見て『橘』がどのような意味合いで捉えられていたのか、そして紛れもなく『橘』は古代イスラエルの失われた10氏族と言われている弓月の君=秦氏の象徴であった事が明らかになった気がします。
まず『橘』はどんな捉え方をしていたか。
橘の漢字の成り立ちをまず考えていきます。
会意兼形声文字です(木+矞)。「大地
を覆う木」の象形と「台座にたてた矛
の象形」(「突き刺す」、「おどかす」
の意味)から「人をおどかすような
とげのある、たちばな」を意味する
「橘」という漢字が成り立ちました。
とありました。
https://okjiten.jp/sp/index.html
つまりは、タチバナ→太刀 花であり、
断つの派生語として橘があります。
橘には鋭い棘があります。橘は強く、香り高く美しいが近づく事のできない、霊薬に相応しい植物であるという事が分かります。
では、秦氏と橘の繋がりについてお話ししましょう。
それは、私が桜井市にある穴師坐兵主神社について調べた中で分かってきた事です。
穴師坐兵主神社の社紋は『菊』『三つ巴』『橘』があります。
穴師とは穴を掘る職人、ここでは、よく鉄が採掘された場所といわれています。
兵主神は秦氏が祀っている八神のひとつと言われています。
前回お茶の発見者が神農であるとお話ししましたが、その神農の子孫『蚩尤(しゆう、拼音: Chīyóu)』蚩尤は『史記』「封禅書」では八神のうちの「兵主神」に相当するとされ、戦の神と考えられています。戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢など優れた武器を発明、あるいはそれらに金属を用いるようになったのは蚩尤であると伝説されており、『世本』では蚩尤が発明した五兵(5つの兵器)として戈(か)・矛(ぼう)・戟(げき)・酋矛(しゅうぼう)・夷矛(いぼう)が、『龍魚河図』では兵杖・戟・刀・大弩が挙げられている。Wikipedia
蚩尤が神農の子孫であり、また、弓月の君=融通王(秦氏)も神農の子孫です。
穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」である…とWikipediaにもあるように元々、穴師坐兵主神社は弓月の君(秦氏)が作ったイスラエル弓月国を意味する弓月岳にお祀りされていたのです。
一度秦氏について、日本の歴史にどのような影響を与えていたかをみていきます。
前回もお話ししたように嵯峨天皇の命で記した『新撰姓氏録』に「弓月の国王、百二十七縣の民を引き連れてやってきた…集団の名は秦氏」その時に献上した機織りは肌触りが殊の外良くそこからハダ→ハタになった…などの記載がありますが、それも一つにあるかもしれません。
しかし、やはり、最も有力視するのは旧約聖書における古代イスラエルの唯一の神、ヤハウェが関係しているのではないでしょうか。
なぜならヤハウェをヘブライ語にした時「יהוה」と書きます。日本語から見ればヤハも漢字の八ハになり、『八』は神という意味と捉えてきたのかもしれません。
そう見ると、八千矛神も、八咫鏡、八尺瓊勾玉、八幡神、八坂神社、八神比売神、八十神、八岐大蛇…ちなみに田道間守が持ち帰った「橘」の数は「ほこ8ほこ、かげ8かげ」であったと古事記にあり、「ほこ」と「かげ」の意味は「苗木」と「種子」。古語の「~は」は、「~ハ」とカタカナで書かれているなど、八またはハは神に関わる文字として日本に深く深く浸透しています。という事はハタ氏がどれだけの影響力があったのか…
八、ハという数字若しくは文字に隠された秘密は古代イスラエルの宗教的観念が反映されているのではないかと思ってしまいます。
日本の君が代の「千代に八千代に…」や、はたまた父チチ、母ハハにまで考えが及んでしまいます…
穴師坐兵主神社についてはまた別の機会に触れるとして、今日は『文化勲章』のモチーフについてお話ししたいと思います。
文化勲章(ぶんかくんしょう)は、科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績のある者に授与される日本の勲章。当時の内閣総理大臣・廣田弘毅の発案により、1937年の文化勲章令(昭和12年2月11日勅令第9号)を以て制定された。Wikipedia
とあります。
さて、この文化勲章、モチーフは『橘』
橘の花の中に三つ巴の勾玉が配されています。葉と実もデザインされています。
写真の文化勲章をよーく見ていきます。
三つ巴の勾玉の下は鏡、橘の花弁は剣(五弁は陰陽道を表すが…)、ここで三種の神器がデザインされているように思われます。
三つ巴は八幡神社の神紋でもあります。
では、その上の葉と実のデザインを見ます。
鏡合わせのデザインで三箇所がくっついてるデザインです。
私には何か手指が合わさる様に見えました。
手の形。つまりは『九字護身法(くじ・ごしんぼう)の「兵」の形』に見えました。九字切りとは【臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前】と唱えながらそれぞれの手の形を取り九字切りをする事で、煩悩や魔障一切の悪魔を降伏退散させ、災難を除く呪力があるとされる修法です。
九種の印には神仏を表しており、そのデザインにそっくりな印の形が『兵』であり、兵の神格は八幡神でした。
また、この九字を誦えると五兵(弓・殳・矛・戈・戦)蚩尤の八十一人(八I)の兄弟が初めて作ったとされる。があたらない。と言う。
ちなみにこの文化勲章は当時桜のモチーフであったのを『橘』に変更したのは昭和天皇であり、昭和天皇の弟である三笠宮様は古代イスラエルと聖書の研究をされていました。
三笠宮様が文化勲章に関与していたかは分かりませんが、日本軍に従軍経験のある最後の皇族として、兵器の恐ろしさは、よく理解されていたと思います。しかし、だからこそ、そうして発展していった文化を敬いつつも、誤った選択にならぬよう芸術という枠に収め
文化勲章という形に思いを秘めたのではないかと、勝手に想像してみました。
こたえや、ヒントは古代にある…

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